Text - テキスト

この写真がすごい2008 (朝日出版社刊) 大竹昭子(作家)

アジア風来坊・小池英文

写真は知らない現実について教え、感覚を拓き、人や物の関係を変え、記憶をよみがえらせる。意識を揺さぶりながら、同時に潜在意識に働きかけて眠っている能力を掘り起こす。どうしてそれが可能なのか。写真が現実の一部をはぎとってくるものだからである。頭の中で考えたものがそのまま写るカメラは未だ存在しない。現実に対して開かれた窓、それがカメラのファインダーなのであり、その窓を共有することで見えたものを語り、論じ合い、感覚をシェアできる。毎日会っている同僚のなかに新たな発見をするようなことが、写真とのあいだに起こりうるのだ。

アジア風来坊・小池英文 滑ったことを笑っているのか、それともぽろっと出てしまったことを笑っているのか。ほかの女性もブラジャーをしていないようだから、やっぱり滑ったことがおかしいのではないか。そんな単純なことに、こんなにも朗らかに笑えてしまうシンプルさがまぶしい。海外で出会うインド女性は、背中に食い込むブラジャーがサリー越しに見えて、目のやり場に困るが、あれとは好対照をなすあっけらかんとしたシーン。

(あとがきより抜粋 + 上記写真について)

概念変える新しい「旅」 藤沢周(作家)

アジア風来坊

アジア風来坊・小池英文

ひたむきな旅、という形容がこの時代にフィットするかどうかは分からない。

今、書かれているポスト「地球の歩き方」的旅行記の多くは、たいていが予定調和的なフェイク=まがいものといってもいい。インターネットなどでリアルタイムで入ってくる情報をもとに捏造(ねつぞう)される異国のイメージ、それと似ている旅が売りだったりする。

つまりコロニアリズム(植民地主義)的な発想だ。われわれ日本人が思い描く外国、そして、その先入観を打ち砕いてくれる国というイメージもまたしかりなのだ。 「見聞を広める」と表現される旅はこの時代においてももちろん、未知なる他者との遭遇も確実にあるだろうが、本書はその他者が結局自分であることを確認した貴重かつ真摯(しんし)な旅行記である。

中国、インド、ネパール、チベット、タイ、とさまよう旅の記録は、初めのうち、文章化の時点でやはりフィクション的な操作が確実にあって、におう。たとえば「遠くシルクロードに吹き荒ぶ砂塵が風に乗り、揚子江を漂い、悠久の時を流離いながらこの河口にたどり着いたに違いない」と上海について書き、インド・ガンがで「朝日は血の色をしている」と書く。

だが、著者自身が「箱庭の青年」と表現しているように、日本でモノと情報にまみれ身につけたフィクションやフェイクな形容が、しだいに実際に見たもの、聞いたものと格闘し始めるのだ。「これはウソを書いている。これは違う」という声が行間から漏れ聞こえ始め、やがて、本当の自分の欲望がストレートに飛び出す。そして、たとえば小鳥の鳴き声を聞いて、触ってみたいと書いたりする。作為的な旅物語よりも、これが「旅」かと思わせるような何でもない発見こそが逆にリアルで迫力なのだ。

かつて藤原新也が世に問うた旅の書物群から育った著者だが、そのコンセプトをまた一つ変える旅行記を著した。

(共同通信配信書評)